井上 安治 | いのうえ やすじ |
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別号: 探景(たんけい) | |
1864年(文久4年/元治元年)〜1889年(明治22年) | |
浮世絵師、版画家 |
井上安治は25歳で生涯を閉じた短命の浮世絵師であり、文明開化で変遷を続けた東京の等身大の姿を映しました。
井上安治の描く突き抜けた風景は当時の東京の空気感さえ感じる魅惑の作品です。
東京の浅草の錦織問屋の長男として生まれた井上安治は、幼少期から病弱で絵を好んでいたとされ、月岡芳年に師事しましたが作風が合わず、14歳の頃に小林清親に弟子入りします。
2m近くの大男であった小林清親が雪の中 風景画を描いていた所、井上安治がずっと見ていたのがきっかけだったそうです。
井上安治が17歳の時に版画を発表した際は作品の欄外に小林清親の名が添えられ、小林清親が才能を認めて応援していた様子が伺えます。
1889年結婚を前に25歳の若さで井上安治が逝去した時、小林清親はその早すぎる死を惜しみ「つえ折れて ちからなき身や 萩の枝」という句を捧げました。
師である小林清親によって編み出された画法であり、従来の鮮やかな浮世絵とは異なり、西洋風の奥行きと影を取り入れ叙情的に描き出したものが光線画です。
1876年に発表され非常に人気でしたが、小林清親は1881年に光線画の制作を辞めました。
理由は本人から語られることはなく諸説ありますが、弟子であった井上安治の才能を認め道を譲ったとの説があります。
井上安治の光線画の1/4は小林清親の絵をなぞり手を加えた形ですが、ドラマチックな小林清親の絵に比べて井上安治の絵は淡々として素っ気なささえ感じるものの突き抜けた魅力がありました。
暗闇は誰よりも暗く表現していたにも関わらず、不思議と明るささえ感じさせる画力があります。
小林清親と井上安治は1876年〜1884年の8年間で、約300点の『東京名所絵』の大判シリーズや葉書シリーズなどの東京風景画を残し人気を博しました。
この後は井上探景と画号を改名し、光線画を描くことはなく末流浮世絵師として活躍することとなりました。
当時は無名に近い形で夭折した井上安治ですが、徐々に評価が上がりました。
漫画家の杉浦日向子は井上安治と共鳴したかのような「YASUJI東京」という漫画を発表し、その中で「安治の網膜に映った風景。たしかにこれは絵ではない。まして写真でもない。百年の時を貫き東京が見える。 ――窓だ。」と表現しています。
2018年5月にNHKの日曜美術館で井上安治の特集が組まれ、更に知名度と注目度が上がりました。
今回お買取りの版画は、『貴顕演劇遊覧図』で幕末から明治に活躍した浮世絵師『楊洲周延』との合作として、1887年4月の天覧歌舞伎の様子が描かれた浮世絵です。
音羽屋の名優である五代目 尾上菊五郎によって、源頼光にまつわる歌舞伎「土蜘蛛」が上演されました。
向かって右手に明治天皇、左手に昭憲皇太后が同席した形で描かれていますが、実際には1日違いで観覧したそうです。
こちらは晩年多く制作した時事報道の時局絵であり、大判三枚続の作品となっています。
浮世絵は大衆向けに版画化され大量に刷られ、気軽に購入ができる物でした。
井上安治の東京名所絵シリーズも、東京見物のお土産として親しまれたようです。
大量に生産された物よりも、数量限定の作品のほうが査定価格は上がります。
原画に関しては更に高額になります。
また、井上安治は光線画の評価が高いので、光線画の作品は高額買取が期待できます。
同じ作品でも、その保存状態により買取価格は大きく変動しますので、版画の保管は特に湿気と紫外線に注意が必要です。
湿気はカビや虫によるダメージの原因になり、紫外線は染料や紙の劣化を招きますので、保管にはご注意下さい。
お引越しなどでコレクションの整理などでご売却を考えておられましたら、まずはいわの美術までご相談下さいませ。
お客様の大切な作品を次の方へ引き継ぐお手伝いをさせていただきます。
今回お買取りの井上探景(安治)の『貴顕演劇遊覧図』は、多少紙の折れ曲がりが確認できるものの、保存状態が良かったので高額買取させていただきました。
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