浜田知明の銅版画買取ります
こちらの画像にある不思議な銅版画を描いたのは版画家・彫刻家として日本のみならず海外でも活躍されている浜田知明です。
1917年に熊本県に生まれた浜田知明は、幼い頃から絵を描く事が好きだった事もあり、中学で美術の教師として赴任してきた洋画家の富田至誠から絵を教わるようになります。
16歳になると絵の才能が認められ東京美術学校の油画科に飛び級で入学し、そこで助教授をしていた藤島武二にも師事しました。
東京美術学校を卒業後すぐに作品制作に取り掛かろうと考えていた矢先第二次世界大戦が勃発し、浜田知明はすぐに日本軍へ入隊し中国の山西省へ派遣されます。
4年後には満期を終え地元に帰るも戦争が激しくなってきた事で翌年には再度召集されるなどして、20代の大半を軍隊で過ごす事となりました。
20代を軍隊として過ごした浜田知明は、長年戦争に加わった事から後の作品に大きく影響を残す事となります。
第二次世界大戦が終戦を迎えると浜田知明は故郷に戻り高校の教師をしながら作品制作を行い、31歳で東京に上京し自由美術家協会に所属して作品発表の機会をうかがっていました。
その後、浜田知明の作品が世の中に知れ渡るようになったのは上京から3年後の1951年に開催された自由美術家協会展で出品した初年兵哀歌というシリーズです。
その後3年間の間に初年兵哀歌シリーズで15作品を発表しますが、その中でも初年兵哀歌(歩哨)という作品は高評価を得ていて、1956年にスイスのルガノという町で開催された国際版画ビエンナーレでは賞を受賞しています。
浜田知明は日本国内のみならず海外の美術館で作品が展示・所蔵されるなど世界的にも評価が高く、100歳を超えた現在も制作意欲は衰えません。
浜田知明の作風
20代と言えば青春真っ只中ですが、そんな楽しい時代を浜田知明は軍隊として過ごしました。
日本軍に入隊すると、それぞれの地域に派遣されその班を分隊長が仕切りますが、その分隊長によって今後の生活が左右されます。
浜田知明の軍隊生活もとても過酷で、分隊長の言う事は絶対、自分の思った事などは言えず自由などはない苦しい生活を強いられます。
この経験により浜田知明の作品は戦争での過酷さを訴える作風になりました。
数ある浜田知明の作品の中でも、スイスのルガノという町で開催された国際版画ビエンナーレ展にて受賞した初年兵哀歌(歩哨)という作品は戦争に派遣された軍隊の過酷さを物語っています。
初年兵哀歌(歩哨)という作品は、軍隊での過酷な生活に耐えきれず銃口を喉に当てて自らの足で引き金を引こうとする様子が描かれている悲しい作品です。
また、引き金を引こうとしている人の目から一筋の涙が流れている事から苦渋の決断をしたという苦しみや悲しみが感じられました。
浜田知明のほとんどの作品はモノクロで描かれていますが、それは「善悪関わらず戦争での不条理な人間関係を訴える為には色彩などの無駄な物を捨てて白黒の銅版画で表現する事を選んだ」とインタビューで答えています。
浜田知明は、戦争で体験した実体験を元に軍隊での苦しく過酷な日々を作品にして訴える事で、戦争を二度と起こさせないように警告しているそうです。
目を背けてしまう程残酷な作風が多い浜田知明の作品ですが、どこかユーモアを感じる作風で日本のみならず海外でも高く評価されています。
浜田知明の作品買取
浜田知明は銅版画を主に製作していますが、それ以外にもブロンズ作品なども手掛けており、いわの美術では浜田知明のブロンズ作品もお買取り致します。
浜田知明の銅版画では、作品のタイトルやエディションナンバー、作品の大きさを頂ければ大体の査定額をお伝えする事が可能です。
ブロンズ作品では、作品の大きさ、サイン、タイトルなどの情報を頂けますと詳しく査定出来ます。
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