古くから「織物の貴族」と謳われてきたレース。レースは、古き良き時代の王侯貴族にとって身分や地位、権力の象徴でした。
レースの発生地には諸説あり、イタリアのベネチア説、オリエントからベネチアに伝わったという説、アドリア海東岸のダルマティア説などあり、定かではありません。レースが現代のように美しく華やかなものとなって発達したのは13世紀頃で、教会の尼僧の手仕事が基となったといわれています。
そして、1533年にイタリア・フィレンツェ・メディチ家のカトリーヌ・ド・メディシスがフランスのアンリ2世に入興したときから、フランスのレースブームは始まりました。
北イタリアを中心に新たなレースの手法が考案され、17世紀初頭にかけて、襟や前飾り、裾飾りなどにレースが使用されるようになると、ヨーロッパ中の王侯貴族がレースの魅力にとりつかれました。
当時のフランス宮廷は、庶民の贅沢を禁じていたにもかかわらず、王侯貴族たちは自らの権威を誇示するためにイタリアレースを買い漁りました。このイタリアレースのブームは、フランス国家の財政を危うくするほどで熱狂的なものでした。
そこで、ルイ14世の時代の宰相コルベールが、当時のレース産地として有名だった北イタリアやフランドル地方の職人を自国に招き「王位フランス・レース製造所(1665年頃)」を設立し、フランス国内でのレースの開発と生産に乗り出すことになりました。 そこから、ポワン・ド・フランスというフランス独自のレース技法が急速に発達していきました。
ポワン(Point)とは、「刺し目」の意味で、英語のレースに相当します。王位フランス・レース製造所設立後、瞬く間にポワン・ド・フランスはレースの代名詞となりました。
ポワン・ド・フランスの特徴は、外観が極めて豪華で、繊細であることと、優雅な美しさに満ち溢れている点です。
ポワン・ド・フランス模様の構図は左右相称を基本としながら、繊細な糸使いでデザインが表現されます。レースの全てが人の手でひと編み、ひと編み丁寧につくられ、2平方センチメートルあたりのレースをつくりあげるのに、20〜30時間を要したといいます。
ポワン・ド・フランスのメッシュの形は、六角形に整理され、模様と模様のつなぎ目をかがった部分であるプリッドが規則正しく並びます。ベネチア産のローズポワンと比較すると、模様にあまり凹凸がなく、落ち着いて上品にまとめられています。
ポワン・ド・フランスの特徴的模様としては、蓮の花模様のロータスやシュロの葉を扇形に広げたパルメットという植物文様、花唐草などがあげられます。
18世紀のロココ時代はブルボン王朝を頂点とし、華麗な服飾文化が花開いたときです。リヨンの絹織物とともに、ポワン・ド・フランスは、貴族・貴婦人の権力の象徴として重要な役割を果たしました。
貴婦人たちは、パニエ(スカートを広がせる下着の一種)をポワン・ド・フランスで華麗に飾り、またペチコートの裾飾りやリボン飾にもポワン・ド・フランスを用いました。貴族男性もクラバット(ネクタイ)やカフス、ブーツや帽子をポワン・ド・フランスで飾ったといいます。
ポワン・ド・フランスのレースは、こうしてヨーロッパ中の貴族たちを虜にし、贅をこらしたフランス・レースを身に着けることが一種のステータスとなっていきました。
当時は、「家柄はレースでわかる」とまでいわれ、貴族たちは生活を犠牲にしてでもレースを求めたそうです。
また、手に持つための飾り、アクセサリーとして、レースのハンカチーフも大流行しました。
16世紀〜18世紀にポワン・ド・フランスを中心として、宮廷貴族の間で大いに花開いたフランスのレース文化でしたが、その流行は衰退の兆しをみせます。
1850年以後は、衣服の流行が豪華な装飾ではなく、実用的なものとなり、レースの需要が少なくなりました。
イギリスの産業革命やフランス革命により、機械化が進み、手工芸のレースは激減し、安価なレースが大量に出回るようになりました。
こうして、貴族のステータスとして、宝石にも匹敵する価値のあったポワン・ド・フランスのレースは、最下級層の人々以外は、誰にでも手に入るものへとなっていきました。
現在、フランスの伝統的な手工芸レースは、わずかではありますが作られています。フランスの伝統工芸であるレースの技術は、ユネスコの世界遺産として登録されており、ポワン・ド・フランスの技術は、アランソンやアルジャンタンなどフランス各地に脈々と生き続けています。