ルドゥーテ(ピエール=ジョセフ・ルドゥーテ Pierre Joseph Redoute 1759〜1840年)は、フランス革命前後の王侯貴族や上流階級の人々に「バラの画家」「花のラファエロ」として、ボタニカルアート(植物画)史上最も優れた画家の一人に数えられる巨匠です。
ルドゥーテは、ルイ16世王妃・マリー・アントワネットの博物蒐集室付素描画家に任命され、ナポレオン皇妃・ジョゼフィーヌから寵愛を受けて宮廷画家として活躍しました。
1759年、ルドゥーテは、父は宗教画家、兄弟は装飾画家というルクセンブルクの職業画家の家に生まれました。
幼少期にはオランダで有名であった植物画家・ヤン・ファン・ハイスムなどに絵を学び、23歳の時にパリに出て、舞台装置の仕事をしていた兄の下で働きながら、王位植物園で植物画を描く仕事をしていたといいます。
次第にルドゥーテの植物画は高い評価を受けるようになり、ヤン・ファン・ハイスムの弟子であったヘラルド・ファン・スペンドンクに才能を見出され、その紹介で、王室所属画家に任命されるに至ります。
やがて王妃・マリー・アントワネットの絵の教師を務めることとなりますが、王妃との関係は、フランス革命中にも続き、ダンブルに投獄された後も、アントワネットを訪ね、王妃が牢獄で描いた絵をルドゥーテが持ち帰ったという記録も残っているそうです。
写真技術がなかったこの時代では、写実的に植物を描ける能力は、博物学史上、大きな意味を持っており、フランス革命後は、「国立自然史博物館」の植物コレクションの写生を命じられます。
ナポレオン帝国下では、皇帝妃・ジョセフィーヌにマルメゾン庭園の管理を委託され、皇帝妃付き画家の称号も得ています。ジョセフィーヌはルドゥーテに250種に及ぶバラの絵を全て模写するよう命じ、ルドゥーテが当時のバラの種類の大部分を記録として残すことになりました。
こうして生まれたのがルドゥーテの最高傑作とされる「バラ図鑑」です。しかし、1814年ジョセフィーヌが死去し、その「バラ図鑑」が刊行されたのは、1817年であったため、ジョセフィーヌがその図鑑をみることはありませんでした。
ナポレオン皇帝妃ジョゼフィーヌが栽培した数々のバラを、ルドゥーテが彩色銅版画として刊行した「バラ図譜」は、科学としての正確さと、芸術としての優美さを併せ持っており、この作品により、天才植物画家ルドゥーテの名を不動のものにしました。
「バラ図譜」には、ルドゥーテの綿密な観察力と精緻なデッサン力により、写実的でありながら、優美に珍しいバラが描かれています。 その名声を不動のものとしたルドゥーテの「バラ図譜」は、多色刷りの点描による銅版画に手彩色するという時間と手間のかかる「点刻彫版法」という技法で描かれています。
ルドゥーテの作画手法「点刻彫版法」は、輪郭線を描かずに点の粗密によって濃淡を表現する方法です。多色にしても色が混ざらないため、生き生きとした生命感を表現できるため、原画に近い色合いが再現されました。
「点刻彫版法」は、1800年頃からのルドゥーテの作品にみられる作画手法ですが、非常に困難な技法であったため、19世紀以降はあまり用いられなくなったといいます。
他の追随を許さない技術で花々を描ききったルドゥーテは、最高傑作「バラ図鑑」のほか、「ユリ科植物図譜」、「美花選」など多数の植物画を残しました。また、ルドゥーテのバラ模様は、1800年代初頭のセーブルのディナーセットにも取り入れられています。