小石原焼(こいしわらやき)は、九州の福岡県朝倉郡東峰村にて焼かれる陶器です。主に生活雑器が焼かれ、刷毛目、飛び鉋、櫛目といった素朴な用の美を生む技法が特徴として挙げられます。
小石原焼の始まりには諸説ありますが、「高取歴代記録」によると「寛文5年(1665年)二代高取八蔵親子が穂波郡中村(白旗山窯)から上座郡鼓村に移り住み窯所を開いた」とあり、その後、筑前藩御用窯として、茶道具を専用に焼いたとされています。
また、平成6年の発掘調査により、福岡藩主・黒田光之によって招かれた高取焼の陶工八之丞によって焼かれた窯跡が確認され、これが小石原焼の始まりというのが通説となっています。 小石原焼は、高取焼の影響を強く受け、刷毛目や飛鉋、流し掛けといった特徴的な技法によってつくられた日用雑器は、昭和初期の民芸運動を牽引した濱田庄司やバーナード・リーチらが「用の美の極地」と賞賛し、小石原焼の名が全国的に広まりました。小石原焼の技法は、山一つ向こうの小鹿田焼にも伝わり、影響を与えました。
高取焼:筑前福岡藩主黒田長政が朝鮮陶工・八山(高取八蔵)に鷹取山山麓に築窯させたもの。黒田藩の御用窯として栄え、遠州七窯の一つとして「綺麗さび」の世界を確立し、茶陶・高取焼として名を高めた。
小鹿田焼(おんたやき)は、1705年小石原焼より、陶工を招き開窯したと伝えられています。その技術や伝統は一子相伝で守り続けられ、現在は坂本義孝窯など窯元が10窯あり、その技術を受け継いでいます。
「用の美」の小石原焼の影響を受ける小鹿田焼ですが、開窯後は奥深い山里でひっそりと焼かれてきました。しかし、そんな小鹿田焼が脚光を浴びるようになったのは、昭和に入って、民藝運動を起こした思想家・柳宗悦が高く評価したことによります。
また、昭和29年、30年に、バーナード・リーチが小鹿田に逗留し、作陶したことでも知られています。
現在も昔ながらの技法を受け継ぐ小鹿田焼は、平成7年には伝統的民陶として、国の重要無形文化財にも指定されています。
小鹿田焼の特徴
小鹿田焼の陶土は、他の地域の土を混ぜない単一のもので、地元の土にこだわりを持ち、すべて集落周辺の山から自給しています。そして、その陶土を粉砕するための水車の原形ともいうべき「唐臼」が現在も使われていることも特徴的で、乾燥された陶土がこの唐臼で10日掛けて細かく粉砕されています。
小鹿田焼はもともと農家の日用品を焼き続けていた窯で、その伝承技法は刷毛目、櫛目、指描き、飛鉋、打ち掛け、流し掛けなど、素朴で美しい模様が特徴です。
飛鉋は、半製品を轆轤台に乗せて、回転のスピードに合わせ、L字型の道具「カンナ」を寒暖なく上げおろしして、器表面を断続的に削って模様がつけられます。小鹿田焼では、大正末期から昭和初期に取り入れられました。
こうした技法による小鹿田焼の形や文様、釉薬の洗練された「用の美」が、現代の生活にもマッチするとして、現在も人気の高い九州のやきものの一つです。