ドイツの名窯として、まず挙げられるのが世界的に有名なマイセン窯です。マイセン窯は錬金術師ベトガーが、1708年ザクセン選帝侯の庇護のもとに創立し、ヨーロッパで初めて硬質磁器を生みだした名窯です。
18世紀後半に入ると、マイセンの技法が各地に流出し、硬質磁器を焼成する窯は20を超える勢いとなりました。
その主要な窯は、マイセンに次いで、ヘフスト、ベルリン、ニュンフェンブルク、フランケンタール、ルドヴィヒスブルク、フュルステンベルクが知られており、これらは18世紀ドイツの7名窯と呼ばれています。
マイセンに次ぐ歴史をもつドイツ第2の古窯で、通称はヘキスト (Höchst)ですが、ヘフスト、ヘーヒストとも発音されます。
ヘキストは、1746年、マインツ川畔の小さな町ヘキストに、マイセン窯でシノワズリーや柿右衛門様式に健筆をふるった絵付け師レーベンフィンクがマイセンの過酷な管理体制に耐え切れず、マイセンを去ったのちに開かれました。
このヘキスト窯を代表するのが陶彫家のヨハン・ペーター・メルヒオールです。彼は文豪ゲーテと親しく、ゲーテの自然回帰思想が強く影響した自然のままの表現の作品の数々を残しました。
しかし、ヘキスト窯は戦争に巻き込まれ、開窯50年で閉窯に追いやられますが、第2次世界大戦後の1947年に、市民運動が契機となって再興されました。
再びスタートしたヘキストは、閉窯当時のままの厳密な絵付け技術を再構築したため、注文制作が原則となっています。それは、下絵すらない白磁に、絵付け師がフリーハンドで描くという全てが手造りであるため、量産不可能であり、幻の名窯といわれています。
KPM(Königliche Porzellan-Manufaktur)ベルリンの名で知られる王立ベルリン窯は、1751年プロイセンのフリードリッヒ大王の特許を得て、羊毛商ウィルヘルム・カスパー・ウェゲリーがヘキスト窯の陶工を迎えて開窯したことに始まります。
しかし、数年後には閉窯してしまい、王の依頼を受けて、金融業のヨハン・エルンスト・ゴッツコウスキーが買収して再建し、さらにフリードリッヒ大王自身が買収して王立磁器製作所として再スタートさせました。
この時にフリードリッヒ大王は、王室の製作所としての特権と並んで、選候王ブランデンブルクの紋章からコバルトブルーの王家の笏を製品マークとして与えました。
フリードリッヒ大王はマイセンから有能な美術家をマイセンに招くなどし、初期の作品には、ゴッツコウスキーの花浮彫り、格子文のレース模様の縁飾りのある皿や、花の絵では赤と黒、金と赤、ピンクと灰色などカメオ風の2色による絵付のものなどがあり、装飾様式はマイセンとセーブル様式を併せたベルリン磁器窯独特の様式を生みました。このフリードリッヒ大王時代の作品はすべて、王の好みを反映したものでしたが、王の死後は、ネオ・クラシシズムへと移行し、落ち着いた作風のものがつくられました。
1880年代は、フランスのアンピール様式の流入により、金彩を多く用いた豪華なものが支配的となり、1830年〜40年代は壮大な壷やミニアチュールのような繊細な陶板画など、王立ベルリン磁器窯が誇る最も豪華絢爛な作品が製作されました。
王立ベルリン窯は、各時代様式を反映した陶器を次々と生み出して続け、1点1点が手作りされ唯一無二の作品をつくるKPMは、陶器の世界でモダン・クラシックを代表する存在として位置付けられています。
南ドイツのミュウヘンに建つ、緑に包まれたニュンヘンブルグ宮は、17世紀中頃にバイエルン王家の夏の宮殿として建てられたもので、その宮殿の一角に18世紀ドイツの7名窯のひとつであるニュンヘンブルグ窯があります。
1747年バイエルンのマクシミリアン3世の保護のもとに磁器窯として開窯したのが始まりで、工房がニュンフェンブルク宮殿に移転したのは、1961年です。
ニュンヘンブルグ窯は1755年から数年は、ロココ様式の食器や置物などのテーブルウェアを製作していました。
さらに磁器小彫像の名手ブステリを迎え、彼の単純化したフォルムと繊細な感覚の磁器彫像はブステリ様式と呼ばれ,当時他の窯に多大の影響を及ぼしました。
ニュンヘンブルグ窯の特徴は、開窯当初から少数の優れた芸術家らによる高品質の高級品の製作に終始してきたことで、注文を受けてから作品をつくるという伝統は今も受け継がれています。
フランケンタール窯は1755年から1800年頃まで、ライン川とネッカー川の合流地点に位置しているマンハイムの北西にある町でつくられていた窯です。
フランケンタール窯の盛期は、創業直後の約20年間といわれ、ややクリーム色の地に、マイセン風の絵付のテーブルウェアや磁器小彫像が製作され、特に磁器小彫像ではコンラッド・リンクやカール・ゴットリーブ・リュックなどが動きのある表現と繊細な彩色で優秀性を示しました。
また、その一方、テーブルウェアでは花など、フランケンタール窯独自の愛らしさや優しさを表現した作品が多くみられます。
1780年代以降は、セーブルの影響を受け、青地金彩、新古典主義的な装飾の作品に終始し、独自性を失い、またナポレオン戦争に巻き込まれ、開窯後、半世紀を待たずして、閉窯に至りました。
フランケンタール窯の初期の窯印は獅子にP.Hが用いられ、1762年頃にはI.Hのマークが使われていましたが、現存するものが少なく、コレクターの間では稀少性が高いものとして珍重されています。
ルートヴィヒスブルグ窯は、フランケンタール窯に1年遅れた1756年にシュツットガルト近くで誕生しました。
ルートヴィヒスブルグ窯の盛期は、1764年〜1775年とされ、主要作品はロココ様式の踊り子たちの小彫像などで、この窯の高度な技術を示す代表作品として広く知られています。
しかし、その後は、新古典主義の洗礼を受けた作品が大半を占め、独自性を失い、1824年に閉窯しました。
なお、ルートヴィヒスブルグ窯では、1757年の開窯以来、ファイアンス(繊細な淡黄色の土の上に錫釉をかけた陶磁器)も焼成されていました。
北ドイツ・ハノーヴァーに近くに位置するフュルステンベルグ窯は、ブラウンシュヴァイク公カール1世が、マリア・テレジアの御用窯となったウィーン窯に触発され、自領の狩猟館として建てられたフュルステンベルグ城内に創設されました。
当初はマイセン窯を模したテーブルウェアを製作していましたが、1770年代から1804年頃にかけてはロココ様式の渦巻装飾を浮彫りにしたテーブルウェアや小彫像をつくり、一躍人気を博しました。
フュルステンベルグ窯の下絵付にはF印が付けられていますが、これは領主であったカール1世が1753年以後製作される磁器のすべてにFのイニシャルをつけるように命じたことによるものです。フュルステンベルグ窯は現在もなお、時代の変化の中で、伝統を踏襲した磁器小彫像や金彩の壷・テーブルウェアなどを製作しつづけています。
この他のドイツの著名な窯としては、アンスバッハ窯(1758年〜1860年)、ゴーダ窯(1757年〜現在)、フルダ窯(1765年〜1790年)、ケルスターバッハ窯(1761年〜1802年)などが知られています。