江戸時代中期、松尾芭蕉、小林一茶と並び称される江戸俳諧の巨匠の一人としても名を馳せた与謝蕪村(よさぶそん)は、池大雅とともに日本に文人画というジャンルを確立した人物としても知られます。
与謝蕪村は摂津国のとある村の農民の子として生まれ、20歳頃、江戸に下って俳諧師となりました。当時の俳壇も詞書画一致を理想としていたことから、蕪村も独学で絵画を修行しました。のちに、江戸の俳壇を離れて放浪生活に入り、僧の姿に身を変えて東北地方や京都などを周遊しました。
与謝蕪村は、全国を遊歴しながら、各地で僧侶や地方有力者などの求めに応じて作品を制作し、主に絵画で生計を立てていました。与謝蕪村にとって、俳諧と画は等価的な2つの価値でしたが、当時は「俳諧は趣味、絵は生活の糧」と割り切った生き方をしていました。
42歳の頃、京都に居を構え、この頃より与謝を名乗るようになりました。
【与謝蕪村の画風】 与謝蕪村は、中国画と俳諧の精神を融合させた画風が特徴です。手法は、紙本墨絵淡彩で、柔らかなタッチの点葉や点苔、軽やかな線を用い、俳諧に通じる浪漫と感性豊かな画風です。
与謝蕪村の代表作…富嶽列松図、奥の細道図巻、夜色楼台図など
京都の町人の子として生まれた池大雅(いけのたいが)は、15歳頃から扇屋を営み、生計を立てていました。
池大雅の才能を見出したのは、柳沢淇園(画家・儒者)で、彼に師事し、中国の書籍をまねて、士大夫の好んだ景観を描き、また漢詩とともにその文人趣味を示しました。
のち池大雅は、実景描写などを通じて得た独自の工夫を中国絵画に加え、日本の文人画を大成させました。
【池大雅の画風】池大雅の画題は主に中国の山水で、南宗画の技法をベースに、北宗画のダイナミックな構図を取り込み、明るくおおらかな画風を形成しました。池大雅は、京の寺院や文化人、地方の有力者など多くの後援者を得て、各地を行脚しながら画業を追求し、一世を風靡しました。
池大雅の代表作…前後赤壁図、柳下童子図、山水人物図・老松図など
池大雅と与謝蕪村は、徳川時代の文人画を代表する「日本文人画の祖」として二大巨匠と呼ばれ、後世の画家たちに大きな影響を与えました。
池大雅も与謝蕪村も武士の出身ではなく、また大名や大寺院のお抱え画師でもなく、独立した職業画家として、日本で最初に大成した画家であったともいわれます。
画風や経歴など、共通点も多い池大雅と与謝蕪村ですが、彼らは「十便十宜図」という合作を残しています。十便十宜図は、清初期の文人李漁の別荘であった伊園での生活の良さ、便利さを賞賛した漢詩「十便十二宜詩」の詩意をくんで描いたもので、伊園の暮らしやすさを歌った「十便」を池大雅が、周りの自然の美しさを歌った「十二宜」のうちの十宜を与謝蕪村が描いています。
「十便十二宜詩」は、池大雅48歳、与謝蕪村55歳のときの競作で、縦横18cmほどの小さな画帖ですが、この作品は、ノーベル賞作家川端康成が家を買うのをあきらめ、蒐集したことでも世に知られています。