日本や朝鮮、そして欧米諸国に大きな影響を与え続けてきた中国陶磁。中国陶磁の源流は先史時代の土器にまでさかのぼります。 黄河流域の河南省などの遺跡から赤褐色に焦げた紅陶(こうとう)が出土し、約8000年前に粘土紐の輪積み法により、単純な縄文(または無文)で碗や鉢、壺などがつくられていたことがわかっています。
およそ6000年前、農耕文化が発達した黄河の中流・下流域では、粟や黍などを栽培し、縄文の灰陶とよばれる土器で三足土器(3つの足を持つ土器)をつくって、煮炊きや貯蔵用に使っていました。
また、祭祀用などに彩陶(さいとう)とよばれる美しい装飾豊かな彩文土器を生み出しました。彩陶は、土器表面に絵具で幾何学文様や人面、魚、動物などの具象文様を描いた原始美術の不思議な魅力を秘めた土器使用しており、模様には主に赤褐色、黒色白色が用いられています。
彩陶ははじめに河南省の仰韶(やんしゃお)で発見されたため、彩陶の時代の文化は仰韶文化期とも呼ばれます。黄河下流域の山東省では紅陶を中心とした大汶口文化(だいぶんこうぶんか)が発達しました。
つづいて約4000年の龍山文化期には轆轤が使われ、灰陶が多くつくられましたが、ほかには精巧優美な黒陶、双耳杯、高杯、壺などが焼かれました。
次第に黄河中下流域に都市が発達し、古代国家が興りましたが、中国最古とされる王朝・殷では青銅の武器や祭器の鋳造が始まりました。
この青銅器を模した灰陶・白陶が主に明記としてつくられましたが、やきもの史上で殷の時代の特筆すべき出来事としては、人為的に施釉した陶器である灰釉陶が開発されたことがあげられます。
彩釉陶(着色の釉薬をほどこした陶器)の始まりともいえる灰釉陶器は、原始青磁または原始磁器とも呼ばれます。
続く春秋戦国時代にも各地で原始青磁の高杯、鉢、手付水注などがつくられましたが、素地、釉ともに後世の磁器に匹敵する本格的な青磁が製作されるのは、後漢時代末(紀元2世紀頃)を待たねばなりませんでした。