ベルナール・パリッシー(Bernard Palissy 1510年頃 〜1590年)は、ルネサンス期に活躍した異色のフランス人陶芸家であり、造園家です。
ベルナール・パリッシーの手掛けた陶芸作品は非常に個性的で、楕円形の大きな皿一面に、蛇やトカゲ、ザリガニ、カエル、カタツムリなどを題材とし、リアルな形を浮彫りにしたものです。
どちらかというとグロテスクな爬虫類や魚介類、植物といった生き物を、自然のまま浮彫り風に配置した陶器は、ベルナール・パリッシー自らが名付けた“ファヤンス・リュスティック Faience Rustique=田園風陶器”として知られます。
ベルナール・パリッシーは、フランス南西部の小さな村の瓦職人の息子として生まれました。幼少期は瓦職人の仕事を学んでいましたが、やがてステンドグラスの技術に興味を持ち、15歳の頃、ステンドグラスの下絵職人として働き始め、20歳前後にステンドグラス職人ガラス工として独立し、各地を遍歴しました。
しかし、ステンドグラス職人の需要が少なく、パリッシーは測量の仕事をして生計を立てていましたが、その頃、流行していたマジョリカ陶器や、友人に見せられたイタリアのフェラーラ製の陶器コップに出会うと、彼の人生は一変します。この出会いを契機に、パリッシーはその陶器を再現する決意をしたのです。
パリッシーは、実験のために昼も夜も炉に火を入れ、燃料がなくなると自宅の家具や床板まで燃料にしたといわれます。
パリッシーは、寝食を忘れるほど、彩陶の開発に夢中になり、失敗を繰り返しては実験に没頭しました。我が身を省みず研究を続けた結果、妻子は去り、周囲の人にはあざ笑われ、狂人とまで言われ続けました。
パリッシーが最も苦労したとされるのが彩色の技法といわれ、その後15年ほどかかり、その焼成の色に成功し、陶器に魚や蛇などの写実的な彫刻を施した独自の作風「田園風陶器」を完成させました。
パリッシーは、当時弾圧されていた新教徒でしたが、カトリーヌ・メディシス(フランス王アンリ2世の王妃)らに庇護され、「国王御用田園風陶工術始祖」の地位を授けられました。
そして、チュイルリー宮殿内に工房を与えられ、製陶に従事し、王室のために作品を制作しました。
また、パリッシーは、パリにてフランス初の地質・鉱物・博物学一般に関する連続講演会を10年にわたって行い、成功を収めたことでも知られます。その後、パリッシーを庇護する有力者が亡くなると、カトリックへの改宗を拒んだため、捕えられ、バスチーユで獄死します。
ベルナール・パリッシーの田園風陶器は、「自然の基本を理解する」ことを哲学として作成されました。パリッシーにとっては、田園にいる蛇やトカゲといった小動物が、「自然の調和」の中で生かされている愛すべき生き物であったのです。
パリッシーの田園風陶器は、楕円形の絵皿などに原寸大の蛇が浮彫され、周りにザリガニや貝、フナなどが配置され、その近辺にシダや蔦などが配された、非常にリアルで個性的な作品です。
浮彫りにされる生き物は、蛇の他、トカゲ、カエル、桑の実、樫の実といった様々な植物などですが、パリッシーが実物から型を取っていたため、そのすべてが原寸大で、魚や蛇の鱗などは本物と間違えるほど、写実的に表現されています。
ベルナール・パリッシーの最大の作品とされるのが、「フィギュリーヌ」と呼ばれる陶製の人工洞窟で、チュイルリー宮殿の庭園の一角に作られました。