中国古陶磁の手法に基づいた精巧な作品から、独創的で実用的な作品と、時代により幅広い作風で多くの作品を残した河井寛次郎。河井寛次郎の芸術性は、日本のみならず海外でも高い評価を受け、人間国宝や文化勲章などの話は多々あれど全て辞退し、生涯を無位無冠の一人の陶工として貫き通しました。 いわの美術では河井寛次郎の買取を強化しています。
河井寛次郎は、大正・昭和にかけて活躍した陶芸家ですが、陶芸だけでなく、彫刻やデザイン、書、詩、随筆などの分野でも優れた作品を多く残しています。
河井寛次郎の生まれは島根県ですが、活動の主となったのは京都です。河井寛次郎は、高校で窯業科に進み、卒業後、本格的に陶芸家の道を歩みだします。 大正9年には京都の五条坂に窯を築き、独立します。翌年には初個展を開き、中国古陶磁の手法に基づいた精緻な作品で一躍有名になり、河井寛次郎を国宝的存在と評する人もいるほど高い評価を得ていました。
名声を得たにもかかわらず、河井寛次郎は次第に自らの作風に疑問を抱くようになり、濱田庄司や柳宗悦との交友し、その民芸理論に深く共感するようになります。このころより、作風に変化がみられ、実用を重んじた作品を生み出すようになります。 戦後になると民芸的な作風からも離れ、自由で独創的な陶器を作り始め、その卓越した芸術性は世界でも高い評価を受けることとなり、ミラノの国際工業展でグランプリを受賞しました。その後、人間国宝などの推薦を受けますが全て辞退し、生涯無位無冠の陶工でありました。
河井寛次郎の名言に「この世は自分を探しに来たところ、この世は自分を見に来たところ。好きなものの中には必ず自分はいる」という言葉ありますが、ここにも名人芸に胡坐をかかない自己表現の探求者であった河井寛次郎が表されています。
いわの美術では河井寛次郎の作品買取を致しております。河井寛次郎の作品のご売却をご検討中でしたら、美術品・骨董品買取実績豊富ないわの美術までご相談ください。
河井寛次郎の作風は時期により変化し、初期は中国古陶磁を範としたが、中期は民藝理論を更に展開させて幅広い造形作品を手がけ、戦後には独創的な造形美を追求しました。
型作りを得意としたとされる河井寛次郎の作品には、皿、茶碗、鉢などがありますが、河井寛次郎は、自分の作ったものにサインや銘をいれない作家で、作品を美術品として仰々しく扱われるのも好まなかったそうです。
それは、美しいものは決して特別なものではないという考えからのことでした。
河井寛次郎は何千〜何万と作品を製作し、知人にも作品をよく進呈していたため、箱なしや銘のないものが多数残されておりますので、買取査定の際は、鑑定書などがついておりますと高価買取が期待できます。 また、河井寛次郎は多くの作品を残しており、また時代によっても作風が異なるため、作品により買取査定額の差がございます。
いわの美術では、美術品や骨董品の知識に長けた買取専門スタッフがおりますので、河井寛次郎を含め、作家の分からない作品のご売却をお考えでしたら、一度いわの美術までご相談下さい。