いわの美術では愛知県に生まれた美術家・田窪恭治の作品を買取ります。
田窪恭治は、初期の方では個人的な作品を作っていましたが、現在では古く使われなくなった建物などの修復活動に力を注いでいます。
1949年に愛知県に生まれ、幼い頃は美術家など興味のなかった田窪恭治ですが、学生時代に同級生の実家で見た物に衝撃を受け、美術家になる決心をします。
その同級生の実家というのが、金刀比羅宮という香川県に建てられている神社で、金毘羅宮、琴平宮とも書かれ、こんぴらさんと親しく呼ばれていたと言われていました。
その金刀比羅宮の書院で見た伊藤若冲が描いた壁画に圧倒され、自分もこのような素晴らしい作品を描きたいと思ったのが美術家になる原点でした。
イメージ裁判という個展を開催し、作品を展示した事で世界から注目されるようになり、また、廃品などに金箔を貼り作り上げたオベリスクというシリーズも人気の1つとなっています。
25歳でパリ国際青年ビエンナーレ展に出品し、34歳で才能が認められヴェネツィア・ビエンナーレの日本代表に選ばれますが、美術館の窮屈な感じに違和感を覚え始めます。
美術の評論家・東野芳明にも才能を認められましたが、表現の可能性を遠ざけてはいないかと悩んだ末、自然と共に生きるようなアートを書きたいと思い、社会のための美術活動、風景美術へと歩み始めました。
額という枠にとらわれず、思いのまま描く作品は世界中でも高い評価を受けています。
田窪恭治の名前が世界中に知れ渡ったのは、フランスの廃墟とかした礼拝堂を再生したのがキッカケでした。
知人のフランス人に、紹介された古いサン・ヴィゴール・ド・ミュー礼拝堂、そこは見るも無残な状態で、壁も屋根もボロボロの状態でした。
そんな礼拝堂を是非修復させてくれと村人に頼み込みましたが、違う宗教を持つ異国民にまかせていいのかと言う意見が多かったため、村人は了承などしてくれるはずもなく八方ふさがりでした。
その時、田窪恭治は一大決心をします。それは家族一緒にフランスに移住する事で、田窪恭治の本気を村人に見せたいと思ったからです。
その気持ちは伝わりましたが、村人は田窪恭治にある条件を出します。資金は田窪恭治持ち、完成後の礼拝堂の所有権は村に戻す事でした。
その条件を受け入れた田窪恭治は、早速作業にとりかかりますが、中には納得しきれなかった村人も多くいて、お金がいらないなんて詐欺ではないかと疑っていましたが、田窪恭治の仕事ぶりを見てその本気を確信した村人達は、徐々に田窪恭治のサポートをしていきました。
また、海外事業活動関連協議会が海外貢献活動として認め、寄付を受け入れやすくしてくれたため、フランスでは弁護士、建築家、村長などが田窪恭治のためにプロジェクト支援アソシエーションを立ち上げます。
そして完成した林檎の礼拝堂、この作品をキッカケに田窪恭治の名前が世界中に知れ渡り、これからの作品の原点にもなりました。田窪恭治はダイナミックな作品を多く手がけています。絵画やリトグラフなどもありますが、やはり林檎の絵を書いた作品が多く製作されています。いわの美術では絵画やリトグラフなどの作品を手がける美術家・田窪恭治の作品を買取ります。
田窪恭治の作品は主に壁画を描く事が多く、建設家や、写真家と協力して、建物の修復再生の活動を行なっています。
田窪恭治の代表作ともいえる林檎の礼拝堂は、林檎の絵がとても迫力があり、なおかつ繊細で立体的に描かれていて、屋根に関しては色を付け焼いたガラスが瓦のない部分に並んでいます。
外から見ると、お菓子の家を思わせるような可愛らしさ、光が入るとまるで礼拝堂の中が宝石箱になったかのようにキラキラ輝いていました。
田窪恭治の技法はとても独創的で、壁に鉛を塗り、その上に絵具を塗り重ね層を作り、絵具を掘り出し立体感を付けるといったやり方です。
田窪恭治は、3月11日に発生した東日本大震災で壊滅的な被害にあった陸前高田市の復興を願い、陸前高田市米崎町の松月寺で屏風に絵を書くという事にも挑みました。
陸前高田市での最初の活動として、屏風に林檎の絵を書き、和風なイメージを一瞬にして洋風に変えます。
また田窪恭治が震災以前より取り組んでいた活動の中にイヤープレートの製作があります。
年毎にテーマを決め、制作されており、震災後の2013年に作られたイヤープレートは薔薇がテーマとなっています。
薔薇は愛や希望という花言葉を持つとされ、陸前高田市の復興を願い製作されました。
田窪恭治は現在でも、様々な個展を開催し、2013年には紺綬褒章も受賞したり、執筆活動もされているなど多方面で活躍しています。
いわの美術では田窪恭治の作品の買取りを行なっています。しまったままになっているお品物などございましたら是非一度いわの美術までお問い合わせください。