日本の代表的な焼き物の産地〜今回は九州地方の焼き物を紹介します。
肥前国(佐賀県西部から長崎県北部)の古窯です。豊臣秀吉が朝鮮半島に大軍を派遣し、惨敗した文禄・慶長の役の際に、連れてこられた朝鮮人陶工らによって開窯されましたが、その起源は、安土桃山時代の天正年間にさかのぼるといわれています。
登り窯や蹴轆轤などの技術を導入し、唐津焼は広く西日本一帯に流通し、また、「一楽二萩三唐津」という言葉にも示されるように、茶人達にも愛されました。
唐津焼の原土は、砂目の粗い堅い土で鉄分を含み、素地の焼成色は暗い鼠色になるのが特徴です。その種類は多彩で、絵唐津、無地唐津、彫唐津、朝鮮唐津、斑唐津、黒唐津、瀬戸唐津、三島唐津などがあり、どれも李朝(李氏朝鮮王朝)中期の、素朴で、どことなく明るい雰囲気を持っています。
また、無地唐津の一手である奥高麗は、茶陶の優品としても知られます。
【唐津焼の著名な作家】中里太郎右衛門、中里隆、中里重利など
江戸時代、有田皿山を中心に焼かれた肥前磁器で、肥前一帯で焼かれた磁器が、隣接する伊万里港から国内各地や外国に運びだされたことから、伊万里焼ともいわれます。
透けるような白さに繊細な絵付けが特徴の有田焼は、17世紀初め、朝鮮半島の陶工・李参平が有田の泉山で白磁の原料となる陶石を発見したことが始まりとされています。当時の日本の焼き物は、陶器か焼締めが中心で、白く玉の肌を持つ有田の磁器の登場は、陶磁センセーショナルで、瞬く間に全国を席巻したといいます。
明治時代以降、伊万里は輸出港としてだけでなく生産地となり、有田で焼かれたものは有田焼、伊万里で焼かれたものを伊万里焼と区別されています。 よく聞かれる古伊万里とは、江戸時代に焼かれた有田の磁器のことです。この時代には、染付や色絵の技術を発展させた柿右衛門・鍋島・金襴手など、名立たる古伊万里を代表する様式を生み出されました。
初期伊万里…黄みがかった厚い素地に渋い染付の磁器で、おおらかな絵柄や形が持ち味。1610年〜1650年頃まで焼かれたとされる。
柿右衛門様式…赤絵磁器の創始者・初代酒井田柿右衛門から始まり、現代まで続く酒井田柿右衛門家の作品様式。乳白色の素地に余白を生かした絵付けが特徴。米のとぎ汁のような素地は「濁し手」と呼ばれる。1670年〜1990年代に流行。
金襴手…金彩や赤を用いた華やかな装飾が特徴で、古伊万里様式とも呼ばれる。江戸時代・元禄年間に誕生し、ヨーロッパで人気を博す。
鍋島様式…鍋島藩が将軍家や諸大名に献上するためにつくられた精巧で気品ある造形と絵付けが特徴の様式。鍋島様式の磁器の色絵のものを色鍋島と呼ぶ。
鍋島藩は伊万里の奥の秘境・大川内山の窯に当代きっての陶工を集め、その技術は門外不出で、陶工の出入りも関所で厳しくチェックされたといいます。現在も大川内山には窯元が並び、ここからつくりだされる焼き物が伊万里焼と呼ばれます(古伊万里焼・伊万里焼の名称と定義には諸説あり)。
これらの様式を引き継ぎ、現在も柿右衛門窯、今右衛門窯をはじめ、多くの窯元や作家、陶磁器メーカーが活躍しています。 【有田焼の著名な作家】酒井田柿右衛門、今泉今右衛門、井上萬二など
薩摩国一帯で焼かれた陶磁器の総称で、薩摩藩主・島津義弘が朝鮮半島出兵の際に連れて帰った朝鮮人陶工・金海や朴平意らが薩摩の名称で開窯したのが始まりといわれます。
大きくは竪野、元立院、竜門司、苗代川、平佐という系統に分けられます。
薩摩焼には、黒もん(黒薩摩)と呼ばれる日常雑器、白もん(白薩摩)といわれる上手があります。白もんは、当時一般の人には使用が禁じられ、金、赤、緑、紫、黄など華美な絵付を行った豪華絢爛な色絵錦手を主としたものです。薩摩藩は白もんに注力し、パリ万博にも出品するなどし、当時、白もんの優品が数多く製作されました。
黒もんは鉄分が多い土を高温で焼き締めるため、素朴で頑丈な仕上がりが特徴です。黒もんは、黒釉、褐釉、蕎麦釉などが使われ、特に、黒ぢょか(黒茶家)と呼ばれる素朴な土瓶は、焼酎を飲むときに用いられるなど、茶陶から日用品まで幅広く制作され人々に親しまれています。
【薩摩焼の著名な作家】沈寿官など
※九州地方のその他の焼き物には、大分県の小鹿田焼などがあります。