肩書きなど | 日本美術院院友 |
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紹介文 | 神奈川県で生まれた洋画家です。 幼い頃からから愛知、高知、京都と各地を転々として過ごしました。 母親が結婚前に森鷗外の女中をしており、その縁で鷗外に名前を付けてもらいました。 従兄である山本鼎が画家であった事から自身も画家になりたいと考えるようになり、パリに留学している山本のもとへ送っていた葉書には槐多の絵が描かれていました。 それを見た山本は、同じくパリに留学し、先に帰国することになった小杉未醒に槐多の事を頼み、絵を教える事になりました。 日本美術院展などによく出品をしており、原色を多用した独自の色彩が特徴的で野性味あふれる作品を多く残しています。 天才的な姿とは裏腹に幼い頃から奇行が目立ち、エドガー・アラン・ポーに影響されたグロテスクな自作のマスクをかぶってオカリナを吹きながらウロウロするなどこういった奇行は成人してからも続きました。 ある女性に恋焦がれ貢いでいたため極貧生活を送る事になり、満足にご飯も食べられず、酒ばかり飲んでいたので病魔に体を蝕まれていきます。 そんな生活を続けていたため、吐血をするほど体は弱っていたのに徘徊を続けたり、人目を盗んで酒を飲んでいたため、最後はスペイン風邪(インフルエンザ)によって22歳という若さで亡くなってしまいました。 画家として非常に短い人生であったため、残された作品の数は少なく、現在残されている作品はかなりの高値がついています。 |
略歴 |
1896年 神奈川県で生まれる 奨励賞を受賞する 美術院賞を受賞する |