肩書きなど | 多摩美術大学教授 |
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紹介文 | 新潟県で生まれた日本画家です。 医者の家に生まれましたが養子に出され複雑な幼年期を過ごしました。 子供の頃から天才画家と呼ばれ、画家を志すため上京し、働きながら絵を学びました。 しかし、20代に入ると戦争に応召され中国戦線で兵隊生活を余技なくされ、ソ連のシベリアの収容されてしまいました。 戦争が終わって制作活動を再開させますが、昼間は会社で働き、寄宿していた友人の家でカレンダーなどの図案の仕事を手伝い、真夜中に時間を作って学校に通いながら自分の作品を制作していました。 お金が無かったので、銭湯から貰った煙突の煤や石炭の粉や黒の顔料を膠で溶き、独特の「黒」生み出します。 出来上がった黒を使って画面に擦り付け、力強く轟くような漆黒にそこからにじみ出てくるような鮮やかな色彩を特徴とする作品を制作するようになりました。 作品の発表の場は、川端龍子の青龍展として出品を続けていましたが、第34回展に出品した作品がサイズが多き過ぎるという理由で縮小を求められた事が気にくわず、脱会します。 すでに気鋭の画家として認められるほど実力をつけており、東京武蔵野に家を建て、新な出発点としてそれまでに描いてきた作品のほとんどを焼いて処分します。 しかし、51歳の時に病で倒れてから右半身が不随となってしまい、右手の自由が利かなくなってしまいました。 満足に絵を描けず、それでも左手で絵を描く事を止めなかった横山は、以前の力強い筆致は取り戻す事はできませんでしたが、静かで柔らかな筆致を手にいれましたが、左手で描いた「絶筆」を最後にその生涯を終えました。 |
略歴 |
1920年 新潟県で生まれる 出品する これを最後に脱会する |