長野県で生まれた日本画家です。 上京して狩野派・結城正明に学び、翌年開校された東京美術学校に入学し、岡倉天心、橋本雅邦に学びました。 その実力はすぐに発揮され、首席で卒業となりました。 しかし、卒業制作「寡婦と孤児」は、日清戦争の時局とも重なり、その評価を巡って教授会では意見の対立が起こってしまいました。 卒業後は、抵抗博物館の古画模写事業に従事し、母校・東京美術学校の講師・助教授をつとめます。 岡倉天心が東京美術学校騒動によって辞職すると、春草も辞め、ともに日本美術院創立に参加します。 天津、大観、六角紫水とともに西洋研究のために渡米し、大観とともに各地で二人展を開催し、そのままイギリスへ渡り、イギリスでも二人展を開催するなど、世界でも活躍するようになりました。 伝統的な日本画の世界に様々な技法を導入しようと試みるようになります。
従来の日本画に欠かせなかった輪郭線を廃した無線描法や色彩点描技法などで描き上げた作品を発表しますが、あまりにも斬新すぎて、当時の審査員には理解されませんでした。
それでもあきらめずに近代日本画の発展のために常に新しい事にチャレンジしていました。 しかし、肝臓疾患のため37歳という若さでこの世を去る事となり、多くの人間が早すぎる死を惜しんだそうです。
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