肩書きなど | 本名は上村 津禰(うえむら つね)、常子(つねこ) 文化勲章、帝国美術院会員、帝室技芸員 |
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紹介文 | 京都府で生まれた日本画家です。 女の目線で描かれた美人画を描く事で有名で、女性として初めて文化勲章を受賞した作家です。 京都市で葉茶屋「ちきり屋」の次女として生まれ、父親は松園が生後2ヶ月の時に亡くなっており、女手ひとつで育てられました。 幼い頃から絵を描くのが好きだった松園は、当時の女性に対する世間の冷たい目に負ける事なく、母親に支えられながら画家を志しました。 京都画学校に入学するも、カリキュラムが組まれた作業的な方針よりも、師匠の下でしっかりと学べる方がより、技術を学べると思い、師・鈴木松年が学校を辞める時に一緒に辞めてしまいます。 その後も新たな画法を学ぶべく、幸野楳嶺、竹内栖鳳など師匠を替えてきました。 内国勧業博覧会に出品した「四季美人図」が一等褒章を受け、来日中のヴィクトリア女王の三男アーサー王子が購入したことが松園を有名にしました。 その後も松園の活躍はとどまるところを知らず、それを良く思わない人に展覧会に出品中の作品の顔に落書きされるという事件が起こりました。 それでも負けずに自分の道を貫き通し、近代日本の美人画の代表的作家として西(京都)の松園と東の鏑木(かぶらき)清方と呼ばれるようになりました。 また、女性としての生涯は壮絶なもので、未婚で松篁(しょうこう)を出産しており、父親は鈴木松年ではないかと言われていますが、定かになっていません。 他にも年下の男性に失恋したのをきっかけに、光源氏の愛人・六条御息所が、正妻の葵上に嫉妬して生霊となった姿を描いた「焔」という作品を制作しています。 この作品は松園自身もなぜ描いたのか分からないと言っており、この作品を制作してから3年間は展覧会に出品しませんでした。 |
略歴 |
1875年 京都府で生まれる 四条派の鈴木松年に師事する 一等褒状を受賞する 竹内栖鳳に師事する |