肩書きなど | 特になし |
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紹介文 | 茨城県で生まれた洋画家です。 早くに両親を亡くし、軍人であった兄の影響もあり、軍人となるため陸軍中央幼年学校に進学しますが結核が発覚して中退することになりました。 目標を失い、何をしたら良いのか分からず途方に暮れていましたが、絵を描く事に興味を持っていたので、結核の治療をしながら絵を描くようになります。 こうして画家になる事を決意し、白馬会洋画研究所、太平洋画研究所で本格的に絵を学びます。 文展に出品を重ね、新宿中村屋浦のアトリエに移り、中村屋の主人・相馬愛蔵の長女・俊子をモデルに作品を制作し、俊子との関係が親密なものとなっていきました。 求婚しますが、病気を理由に相馬夫妻に反対され、中村屋を後にします。 こうして色々な土地を転々とし、下落合のアトリエに落ち着くと病魔と闘いながらも制作活動を続けました。 そこで描かれた「エロシェンコの肖像」は彝の代表作となり、明治以降の油絵の肖像画の中で再興の傑作と評され、近代肖像画の巨匠と呼ばれるようになります。 しかし、病魔に蝕まれ37歳という若さで亡くなりました。 |
略歴 | 1887年 茨城県で生まれる 1905年 水彩スケッチを始める 1907年 結核にかかり陸軍中央幼年学校を中退する 1906年 白馬会研究所、太平洋画研究所で学ぶ 1908年 太平洋画会展で奨励賞を受賞する 1909年 第3回文展で初入選する 1910年 第4回文展で3等賞を受賞する 1911年 中村屋の裏にある画室に移住する 1913年 相馬俊子に求婚するが反対される 1924年 病状が悪化する 1956年 12月24日逝去 |